料理というのは、頭と心を使うしごとだと思う。
少し前に、味のしない料理を食べた。
不味い、というわけではない。きっと、そのままレシピ通りにチャっと、無機質な心で作業されたであろうその料理は、本当に味がしなかったのだ。
料理の上手な人、ベテランのお婆ちゃんやお母さんにレシピを聞くと、必ずこの回答をいただく。
「わたしの料理は適当だよ」
この適当っていうのは、例えば使用している食材のコンディションとか、調味料とか、食べる人に適した分量をその場その場で当てている、ということなんだと思う。
野菜の切り方だって、どうしたら美味しいか、ひとつひとつ想いやってくれている人の料理は本当に美味しい。
基本のレシピは頭に入っていて、そこにその場にあった判断と、食べる相手を思いやる行為。
正に頭と心を使っている。
たまにごはんをご馳走してくれる、近所のお婆ちゃんちの料理はあったかい。
私は、彼女がどんなに優しく野菜を育てるかを知っている。
株分けした小さな苗を、私が植えたのは元気なく萎れてしまったのに、お婆ちゃんが優しく植えたその子はスクスクと元気に育っていった。
野菜を「さん」付けして呼ぶお婆ちゃんは、育てるときから料理するそのときまで、優しくやさしく扱い続けているんだ。
話は変わって、食の思想というものがある。
ベジタリアン、ヴィーガン、マクロビやナチュラルハイジーン…
これらは一種の宗教のようであり、ストイックにやり過ぎることを私は好まない。(ベジタリアンやヴィーガンていうのはまた違う考え方の場合もあるのでそこは除きますが)
食というのは楽しむものであり、たまには嗜好品としてジャンクなものをいただくのも、心にとっては良いことだと思うから。
劇的に痩せた!悩みの肌荒れが改善した!マイナス思考が改善された…大きく抱えていた悩みを払拭してくれた、その食の思想という教祖様に入信してしまうのは、仕方ないものなのだろうか…
頑なに肉は食べない!生野菜しか食べない!無農薬しかダメだ!なんて言っているほうがある意味病的だ。
ポリフェノールが体に良い、コラーゲンが肌に良い、イソフラボンが云々、、というメディア戦略も次から次へとやってきますが、
要は、バランスよく何でも食べたら良いということ。
月に一回の焼き肉は活力になり、罪悪感を持ちつつもうまーいと思って食べてしまう食後のポテチだって、無表情に生野菜や山盛りのおからを頬張るよりよっぽど健康に良い気がするのだ。
そもそも、バランスの良い美味しい手作り料理を幼い頃から家庭でいただいていれば、ジャンクフードが毎日食べたいほど美味しいもの、だなんて思わないはずなんですよ。
まああくまで、美味いものを制限してまで長生きしたくはない、という女の戯言なんですけどね。
ただ、ポリシーなく情報に踊らされているのだとしたら、ぜひ自分の食に対する思いというものを見つめ直していただきたい。(食べる、ということは毎日のことだからね)
オーガニックだの有機栽培だのという言葉を、もしも野菜を育てたこともなくギャーギャー言っているんだとしたら、あんなものはマイナスイオンくらい実体のないものと言って差し上げたい。
それらにこだわる理由をハッキリと自分の言葉で話せるならば、どんどんモリモリ消費すればいい。
私は多少農薬を使っていたり、肥料にはこだわっていなくても、生産者のみえる(ここでいう「みえる生産者」というのは、道の駅とかによくある顔写真と名前付きのパッケージのことではなく、近所のおばあちゃんとか本当に知っている人のことです)野菜を美味しくありがたくいただきたいと思う。
というわけで、佃屋調理体験メニューでは、◯◯さんちの野菜、△△さんが釣った魚というストーリーありまくりの食材を楽しんでいただけるよう、引き続き努めてまいります。
ちなみに嫁に入った今も実家暮らしの昔も、食事というのは我が家では日に3度の大切なイベントだ。
食事をする、なんていう至福の時間が日に3度も楽しめるなんて素晴らしい、事にグランドフィナーレである夕食なんてのは一大イベントで、このために日々生きているといっても過言ではない。
家族と、仲間と、友人と、素敵な食のひと時を…どうかみなさまもより一層お楽しみください。
★新井さんち大根、お庭の柚子漬け
★船長による朝釣れブリの皮付きしゃぶしゃぶ
★あじゅまやさんのジャガイモで作ったホクホクコロッケ手作りウスターソース
★カスミのジャスミンから届いた鰈の干物